両毛線で足利駅に向かいました。足利駅はレトロな駅舎で、それ自体が観光スポットのようです。また、名前の通り、足利氏ゆかりの地であり、足利学校という中世の教育施設もあります。
(足利駅を出ていく211系)
小山駅は「なすの」号と一部の「やまびこ」号のみが停車する東北新幹線の中では影の薄い駅ですが、新幹線改札を出て在来線エリアに移ると、なかなか立派な駅舎です。東北本線に加えて、両毛線と水戸線が発着しているのですから当たり前ですね。両毛線は駅の北側に、水戸線は駅の南側に発着するため、両者を乗り継ぐには少し歩かなければなりません。東北本線は最大15両なのに対し、両毛線は4両編成または6両編成、水戸線は5両編成なので、東北本線の分の長さに両毛線と水戸線が向かい合わせに縦列駐車するイメージでしょうか。駅構内を北に向かって歩いて、両毛線ホームに移動します。
(小山駅に停車する211系)
ホームでは211系電車が待っていました。4両編成の列車には、それなりに乗客がおり、地元の方に観光客がちらほら混じっているという感じでした。9:27に小山駅を出発し、足利駅まで40分ほどの乗車、10:11に足利駅に到着しました。東武線の足利市駅には以前降りたことがありますが、こちらに降りるのは初めてです。
東武線の足利駅は高架の上にあり、特急「りょうもう」号も停車する立派な駅舎でした。こちらはこちらで昔ながらの立派な国鉄型駅舎ですが、やってくるのは普通列車のみです。高崎方面の列車は2番線に入り、乗客は跨線橋を渡って1番線に移り、1番線から改札口を出ます。このようにホームと改札口が直結した造りは、国鉄時代の古い駅舎でよく見られます。実際に、足利駅は昭和初期に建てられた洋風木造駅舎で、関東の駅百選にも選ばれています。
足利駅前にはEF60形電気機関車が展示されていました。EF60形電気機関車は、平坦地用の電気機関車で、かつて両毛線で貨物列車が運転されていた時に活躍していたそうです。両毛線は生糸や絹織物の輸送のために建設されましたが、貨物列車は2004年に廃止されました。
(かつては両毛線にも貨物列車が走っていました)
・足利学校を見物
足利駅から足利学校へは歩いて10分ほどです。足利学校は日本最古の学校として知られていますが、その創建には諸説あり、奈良時代説、平安時代説、鎌倉時代説などがあります。いずれにしても古いことは間違いありません。
(お堀にカモが群れていました)
確かな記録が残っているのは、1439年に関東管領上杉憲実が書籍を寄進し、鎌倉の円覚寺の僧だった快元 (かいげん) を招いて初代庠主 (しょうしゅ; 校長) とし、足利学校を再興したことです。上杉憲実は足利学校で教える科目から仏教色を排し、中国古典を中心とするようにしました。また、易学、医学、兵学といった実学も教えられ、戦国時代には足利学校で実学を学んだ者が戦国武将に仕える例が見られました。このように、現在の高等教育機関に近い要素もあるようです。戦国時代には北条氏の保護を受けて隆盛し、フランシスコ・ザビエルによって「日本国中最大の坂東のアカデミー」と西洋にも紹介されるほどでした。江戸時代にも、代々の足利領主によって保護されましたが、朱子学の官学化によって易学が廃れるのに伴って衰退していきました。江戸時代後期には、教育機関というよりも、書籍が集まっている「図書館」の印象が強かったそうです。足利学校は明治維新後、足利藩によって「藩校」とされますが、廃藩置県で足利藩が廃止されるとともに廃校になりました。
(足利学校を象徴する学校門)
足利学校は、水戸藩校の弘道館、岡山藩による閑谷学校などとともに、「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に登録されています。足利学校の全盛期は室町時代から戦国時代で、近世 (=江戸時代) はどちらかというと衰退期のような気がするのですが…。
足利学校の正面には「学校門」があり、門の上には「学校」の看板が掲げられています。学校門をくぐると、敷地内には、孔子を祭る孔子廟のほか、方丈、書院が復元されており、書院は展示スペースになっていました。そのほか、北と南の2つの庭園や、自給自足のための菜園場も復元されていました。また、同じ敷地内には、足利学校の貴重な書籍を保管している遺蹟図書館もありました。
(立派な茅葺屋根)