小千谷にて錦鯉の里と慈眼寺を見物【青春18きっぷで越乃Shu*Kuraに乗りに行く③】

小千谷は錦鯉発祥の地として知られています。また、戊辰戦争の時に、長岡藩の河井継之助と新政府軍の岩村精一郎が会談した地でもあります。

 

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(小千谷はなかなか見どころがあると思うのですが、「越乃Shu*Kura」号から降りた乗客はあまりいませんでした)

 

・錦鯉の里を見物

 小千谷は錦鯉発祥の地として知られています。錦鯉が出現したのは、19世紀前半、文化・文政年間と言われています。今の小千谷市、旧山古志村 (現長岡市) のあたりでは、冬場の非常食として休耕田に鯉を養殖する習慣があり、その中から色のついた突然変異が現れたのが、錦鯉の始まりとされています。その後、1914年の東京大正博覧会で日本全国に錦鯉が知られるようになり、プラスチック容器の普及とともに、錦鯉の飼育が一般的になっていきました。小千谷市では、2004年の新潟県中越地震からの復興の象徴として、錦鯉を「小千谷市の魚」に指定しています。

 

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(地下道への入り口も錦鯉のデザインです)

 

 「小千谷市の魚」であることを主張するかのように、小千谷駅前の地下道の入り口は、錦鯉のデザインになっていました。「錦鯉の里」に向かうにあたって気分が盛り上がります。小千谷市の中心部は、小千谷駅から少し離れており、信濃川を越えたあたりから市街地になります。

 

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(美しい雪山の景色)

 

 旭橋で信濃川を渡って振り返ると、雪をかぶった越後山脈の景色が美しいです。毎日こんな景色がみられるなんて小千谷の方々がうらやましいですね。旭橋を過ぎると、「錦鯉の里」までもう少しです。小千谷駅から徒歩25分、旭橋から徒歩10分ほどで「錦鯉の里」に到着します。

 「錦鯉の里」は、小千谷地域発祥である錦鯉をPRするために、1989年に誕生しました。小千谷市では、春から秋にかけて、土の池で錦鯉を養殖するため、澄んだ水の中を泳ぐ錦鯉を鑑賞することができません。そのため、「錦鯉の里」で鯉を展示し、鑑賞の便を図っているとのことです。

 

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(「錦鯉の里」前の石碑)

 

 入館料は520円で、館内は展示棟と鑑賞棟、および屋外の庭園からなります。展示棟では錦鯉についての展示といくつかの品種の錦鯉が水槽内に展示されています。鑑賞棟は、中央の鑑賞池の周りを歩けるようになっており、鑑賞池の中の100尾余りの錦鯉を上から眺められるようになっています。鑑賞池には様々な模様・色の錦鯉が泳いでおり、いつまでも眺めていられそうでした。

 

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(鑑賞池にはたくさんの錦鯉が泳いでいました)

 

 屋外の庭園は、私が行った4月上旬は閉鎖されていましたが、4月中旬から11月にかけて、錦鯉が泳いでいるそうです。「錦鯉の里」ではオーナー制度を設けており、一定額を支払えば館内の錦鯉のオーナーになることができるそうです。自分の鯉が庭園内を泳ぐのは気持ちの良いことだと思います。

 

・慈眼寺を見物

 「錦鯉の里」を後にし、もう一つの目的地である慈眼寺 (じげんじ) に向かいました。慈眼寺は真言宗のお寺で、7世紀末の創建とされています。なかなか歴史あるお寺ですが、お寺そのものよりも、戊辰戦争 (の一部の北越戦争) の時の、新政府軍岩村精一郎と長岡藩総督河井継之助の会見の場所として有名 (?) です。この会見は、司馬遼太郎の「峠」に描写されています。

 

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(河井継之助)

 

 河井継之助は「峠」の主人公であり、幕末に長岡藩の藩政改革を行った人物です。大政奉還に伴って政局が動き、大きな混乱が起こることを先読みし、江戸屋敷の売却、相場が暴落した米の函館での転売などによって軍資金を作り、新式武器を買い込みました。当時最新式の機関砲であるガトリング砲は、日本に3門ありましたが、そのうち2門を長岡藩が所有していたほどです。長岡藩は7万石の小藩でしたが、新式の武器や兵制によって強い軍事力を持ち、新政府軍でも会津藩と長岡藩を二大攻撃目標と考えていました。

 

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(会見の間)

 

 新政府軍軍監の岩村精一郎は当時23歳の土佐藩士で、長岡藩の征伐を至上命題と考えていたものと思われます。そんな青年将校に対し、旧幕府側につくわけでもなく割拠を主張して停戦を申し出る河井継之助の主張はわかりにくく、慈眼寺での会見はもの別れに終わってしまいました。その結果、新政府軍と長岡藩の間で開戦となり、いわゆる北越戦争が始ました。当初は武器の性能と兵制で勝る長岡藩側が、兵力に勝る新政府軍と互角に戦いましたが、長岡藩の農民の間で物資徴発に反対する一揆が起こり、これに対応するために兵力を割かれた長岡藩側が支えきれなくなり、北越戦争は新政府軍の勝利に終わりました。

 

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(外には桜が咲いていました)

 

 河井・岩村会見の間は、北越戦争の資料も豊富に展示されており、とても良い雰囲気でした。司馬遼太郎の「峠」をもう一度読み返したくなりました。会見の間の隣には本堂があり (正しくは本堂が中央にありその隣に「会見の間」がある)、立派なご本尊を拝ませていただくことができました。慈眼寺のご本尊は住職一代につき一回しか御開帳しない秘仏とされてきましたが、2004年の新潟県中越地震以来、参詣者にご本尊のご慈悲をいただくために常時御開帳しているそうです。

 「会見の間」を見学し、本堂にもお参りして、境内を少し回って、小千谷駅に戻りました。相変わらず、越後山脈がよく見えます。

 

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(相変わらず雪山が美しいです)